私の故郷は、鹿児島県の霧島山麓の水澄み渡る田舎「湧水町」です。霧島山脈からの湧水で作るお米、川内川支流の清流で捕れるうなぎは、美味いと思います。(ふるさと納税して頂いて是非お試しを)。
そんな故郷の町も大夫活気が無くなって区画整理された町並みは、人通りもほとんどなく、子供が見あたりません。民家も商店も疎らで記憶に残るあのころからあった商店は数件のみ。スーパーマーケットに行くとお年寄りが多く、我が故郷も過疎化が進んでいるようです。 さて、そんな町の一角に小高い場所があり、そこは町の運動公園になっています。そこで小、中学校のころ町内会の地区別対抗運動会が行われていた場所で、結構、盛り上がっていたことを思いだします。今は、夜間照明付きの野球 ソフトボールができる球場が2面あります。

城山運動公園には夜間照明のある球場が 2面あります.

城山運動公園には夜間照明のある球場が 2面あります.

ドクターヘリの緊急離着陸場にもなっています。

ドクターヘリの緊急離着陸場にもなっています。

その傍らにコケの生えた石積みが施してある場所があるのですが、なんと 今から○○年前、島津家の城があった驚くべき場所でした。。恥ずかしながらこのことは、最近まで知りませんでした。

この城は 松尾城(栗野城) と言う城で、島津家第17代当主 島津義弘公が、5年間居城していたようです。元々、簡素な山城だったようで、義弘公が居城することで修築させ現在に残る石垣が積まれたようです。この石垣は鹿児島では珍しい自然石(安山岩)を積み上げた野面(のづら)積の手法がとられています。

自然石を積み上げた野面積みの手法で築造されています。

自然石を積み上げた野面積みの手法で築造されています。

400年前の石垣です。現在に残っているだけでも凄いです。

400年前の石垣です。現在に残っているだけでも凄いです。

また、この城は、約400年前、義弘公が大田道灌の子孫の大田武篇之介に改築させたといわれているそうで、太田道灌は江戸城を築造した人物ですね。
さらに、この地は、義弘公が豊臣秀吉の命を受け、この地から朝鮮出兵をしたと言われている歴史ある城です。義弘公は生涯で52回合戦に出陣しているそうですが、関ヶ原の戦いでの敵前突破は余りにも有名な話です。

義弘公が朝鮮出兵の出陣式を行った勝栗神社です。約800年前に建てられたようです。

義弘公が朝鮮出兵の出陣式を行った勝栗神社です。約800年前に建てられたようです。

因みに、薩摩藩の初代藩主は、義弘公の三男の忠恒(家久)公です。忠恒公は、関ヶ原の戦い後、徳川方と交渉し敵陣突破の本意を伝え、本領安堵を勝ち取った藩主です。 以来、薩摩藩島津家は明治維新の廃藩置県まで、12代続いています。我が故郷に、こんな歴史があったことを知り、この時代の我が町の歴史と島津義弘公の人物像を少し詳しく調べて見たくなりました。

松尾城跡の石碑

松尾城跡の石碑

松尾城の本丸があった場所

松尾城の本丸があった場所

帰省した時、行って見ました。現在は、城の入り口から正門前までが整備されきれいです。本丸、二の丸とあったようですが、松尾城どんな城だったのでしょう。想像するしかないようですが、当時の城の風貌が見える資料を探したくなりました。(ないですよね。)正門前にのぼり旗もあり 「義弘公を大河ドラマに」と 旗が揺れていました。

城 入り口から正門までは最近整備されたようです。

城 入り口から正門までは最近整備されたようです。

のぼり旗に 島津義弘公を大河ドラマに 是非 現実して欲しいですね。

のぼり旗に 島津義弘公を大河ドラマに 是非 現実して欲しいですね。