生まれた長崎県佐世保市の九十九島(言い伝えで佐世保湾内に九十九の島
が点在する)の釣りの想い出は、小遣いも無く釣り道具も買えなくて、お
袋の裁縫箱から縫い糸を盗んで桟橋で魚釣りをした。少し大きな魚が掛か
ると、今のようにタモ網もないので、悪戦苦闘の末に糸が切れてしまい逃
げられてしまう結果になる。003小学生のある日、桟橋でいつもの様に魚釣りに
夢中になって遊んでいたら、大きい波がきて繋留されている漁船と桟橋と
の間に左足爪先を挟まれて親指以外をつぶしてしまった。血だらけになっ
た足で自宅に帰り、お袋が戻るのを待って病院に行った。今でも足の爪が
不整形である。 小学校は不登校で海と川ばかりで遊んでいた。お袋が亡く
なってから、海に近い叔父さん宅にお世話になることになった。夜間高校
通学のため、バイトと勉強で魚釣りから遠のいた期間だった。

上京して暫くは、海が遠く感じていたが、北島工務店に入社してからは、時々横浜のドブ臭い山下町で当日申し込んだ船宿から、カレイ釣りで白灯防波堤か赤灯防波堤まで渡船してもらう。防波堤の灯台外装が白色と赤色に分かれていた
ための呼び名だった。帰りは防波堤に来るどこの船宿の船にも自由に乗っ
て戻れた。今の横浜ベイブリッジ付近の防波堤であった。  現在の様にあち
らこちらと釣りに行くようになったのは、昭和57年頃からポツポツと釣
行の声掛けがあって、0021伊東市手石島のメジナ釣り・城ヶ崎のブダイ釣り・小
田原国府津沖のキス釣り・黒潮騒ぐ銭洲・金洲(日本の漁場)のシマアジ釣り
へと魚釣りの機会が増えた。正月休みに設計担当のK・Yさんと静岡県下田市爪木崎須崎島に渡船した釣りは、低気圧が急接近渡し船が迎えに来て
乗り込むが、高波と風が強く前に進めず、陸地の方に押し戻されて座礁寸前
になり、死ぬ思いで帰って来たこともあった。  最後は単独で気ままな磯釣
りで、三浦海岸毘沙門湾の地磯でのメジナ釣りに落ち着いて、仕掛け作り、釣
り竿、ウエアーに凝り出した。約10年くらい通っている。自慢じゃないが、
20cm以上のメジナをまだ、釣った経験がない。(投資額にすると大間の
黒マグロくらいか)。地元の釣りえさ屋の親父から「自分も東京湾(三浦半島東
側、西は相模湾)では25cm以上のメジナは釣ったことが無い。」と聞いてから、
毘沙門湾への想いが弱くなった。

その頃に、工事GのS・Y君が大の釣り好きで、三浦海岸長沢に引っ越しまでした話を聞いてから、ボート釣りにも気が向いてきた。S・Y君宅の目の前の金田湾に同行するようになった。タコ釣り、イナダ(ブリの子供)釣り、キス釣り、アジ釣り、カワハギ釣り、以上は釣果があった釣りで、S・Y船長の勘が外れると坊主の時もあった。釣行予定が決まると、釣る物によって色々と頭のなかが楽しく、準備の仕掛け作りも、忙しい仕事のなかで息抜きが出来た。船釣りも大好きで、栗木・黒川の釣り好きの仲間で作る同好会「栗木釣りクラブ」にも、参加して小田原早川の坂留丸で船釣りが始まった。イカ、タチウオ、サバ、アジ・・・・

船代と比べると魚屋で買った方が遙かに安く買えると不漁の沖上がり時に想うこともある。ある時、アジ釣りで全員が坊主のため、小田原港の魚屋でアジを買って持ち帰ったが、イッパツで女房に言われた。

「今日のアジは大きさが全部おなじだね」だって。

しかし、自然を相手にする遊びは数多く有ると想うが、自分は海で相手で予定から釣行し帰宅、料理して食べる楽しさが一番あっていると想っている。 魚釣りは釣る魚の種類によって、エサ・仕掛け・竿・リール・レインウエアー等違ってくる。自宅3階納戸部屋(10畳もある~に釣り道具が所狭しと置いてある。今後、機会があれば釣り物別の仕掛け等の能書きを説明したいと思っています。
知っているからいらない、分からないからいらない、と意見はあると思い
ますが、1人の人間が50数年極めた雑学?口が上についている魚は海の
底でエサ待ちの魚、口が尖っている魚は泳ぎながら、エサを食べる魚等、
を次回にどうでしょうかね!